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未来へ繋がることばたち。ときどきブログ
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私達の運命を決定する神は、

私たちの内部にいる。

私たちの自己こそが

それである。




―ジェームス・W・ヤング―
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長文です(宗教批判もあり)
少し私の考えと異なりますが、近いものを感じたので載せました。

私は両親が共働きだったため、0歳から5歳まで、保育園で育ちました。
その保育園はキリスト教の保育園で、何をするにもお祈りは欠かせません。子供同士のけんかがあったときも、先生が喧嘩をした双方の子供に(子どもと一緒に)お祈りをして、その場を収めていました。

当時私はいじめられっ子で、特定の子から毎日虐められていました。そんなときも、先生は私を膝に抱きあげて「○○ちゃん(私の名前)が悲しい思いをしませんように」と神にお祈りをしてくれたものです。
でもその時に思ったのは「お祈りをしてくれるのは先生で、神様は何もしてくれない」でした。

「神が許してくださる」「神が愛してくださる」聞けば聞くほど眉をひそめてしまいます、だって何のアクションも起こらないのですもの。私にとっては、私のためにお祈りしてくれる先生の思いやりこそ具体的な愛で、そういった誰かに対する愛情そのものがきっと神なんだろうと今でも思っています。


でも人間、生きていくには足を付ける「地」が必要で、それはきっと「愛される」「許される」ということなのだけれど、現実に生身の人間相手からそれを得るのが至難の業だから、抽象的な偶像(必ず愛し・許してくれる存在)として「神」を作ったのだろうな…と思います。

それ自体が悪いことだとは思いませんが、ともすればその存在が「正義」となり、戦争を引き起こすきっかけになり得るものでもあるなら、私には、「神」は必要ありません。
ダイヤの原石 2009/08/08(Sat)23:18:19 編集
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